「逆立ち日本論」養老孟司・内田樹著を読みました。養老先生はこのブログでよく登場しているので紹介は省きます。内田先生はフランス文学者、武道家、翻訳家、思想家であり、エマニュエル・レヴィナスの訳書「困難な自由」、「私家版・ユダヤ文化論」「下流思考」など著書多数あり、中でも共著が多いようで、林真理子氏との共著「教えて!校長先生 才色兼備が育つ神戸女学院の教え」や寺脇研氏・前川喜平氏との共著「教育鼎談:子供たちの未来のために」などがあります。
養老先生と内田先生がそれぞれの身体論、アメリカ論、正しい日本語、全共闘への執着などを語ることで【日本】が浮き彫りになる、あえて「逆から」見ることで世界が違って見える。内容をざっと紹介すればこんな感じになるでしょうか。先週、視点の話をブログで書きましたが、お二人の視点を通じて世の中を見れば、なるほどこうした見方もあるのか・・・と感じ、まさに視点という教養を投げかけてくれます。
一番印象の残ったのは[第5章]蒟蒻問答主義でした。古典落語に「蒟蒻問答」という演目があるのですがそこから取っています。(YouTubeで観れるのでぜひご覧になってください、柳家小さん師匠や古今亭志ん朝師匠がおすすめです)旅の高僧と蒟蒻屋が問答をすることになるのですが、蒟蒻屋は喋るとバレてしまうので、『無言の行をしているので口が利けません』ということにして、身振り手振りでしまいには「恐れ入りました」と高僧を平伏させてしまうお話です。ジェスチャー伝達ゲームではチグハグな答えが伝達するところが面白さのミソですが、それと同じで、身振り手振りの会話の中で高僧と蒟蒻屋がそれぞれの思い込みで解釈してしまうズレがミソです。この章の最後に、養老先生は「解釈はどっちでもいい」内田先生は「世界の深さは、全ては世界を読む人自身の深さにかかってい。浅く読む人間の目に世界は浅く見え、深く読む人間の目に世界は深く見える」と書いています。
また養老先生は「死ぬまでにとても片付かない問題が多いですね。だけど、そういう死ぬ前に片付かない問題を抱えることが大切なのだと思いますよ」とも言っています。“正解は一つではない・・・・決めないでおこう”と考え続けるタフさ・・・・について考えさせられました。