測りすぎ

2021年11月13日 08:42

「測りすぎ」という本を読みました。著者はアメリカ・カトリック大学歴史学部教授のジェリー・Z・ミュラー博士です。原題の「The Tyranny of metrics」から邦題は若干ずれているように感じますが、一言で内容を直感的に掴むにはなかなか上手い言葉を選んだように思います。

本の冒頭「はじめに」の項には著者はこの本の内容についてこう書いています。「私たちは測定された説明責任の時代、測定された実績に対する報酬の時代に生きており、透明性を通じてそれらの測定基準を公表するという美徳を信じている。・・・・・・・・
測定基準への執着は、実績を測定し、公開し、報酬を与えなければいけないという、一見避けようのないプレッシャーからくるものだ。・・・・・・・
私たちは測定の時代に生きる宿命にあるが、同時に測定ミス、過剰測定、誤解を招く測定、非生産的な測定の時代にも生きている・・・・・・・・・
本書は、測定の害悪について語るわけではない。経験に基づく個人的判断の代わりに標準化された測定を使おうとする際に起こる、意図せぬ好ましくない結果について語る本だ。問題は測定ではなく、過剰な測定や、不適切な測定だ。測定基準ではなく、測定基準への執着なのだ。」

大学ランキングについてはこう書かれています・・・大学ランキングで将来の収入に大きな比重を割り当てることで予期できる影響は、最も給料の高い分野にばかり学生を向かわせるよう、教育機関を動機付けてしまうことだ。
警察についてはこう書かれています・・市長が総合的な数字を改善するように警察幹部にプレッシャーをかけ、そのプレッシャーが転じて各所轄の署長に伝えられ、署長たちが自分の昇進は犯罪の着実な現象にかかっていると信じるようになると、下の方にいる現場の警察官たちが受け取るメッセージは、犯罪報告件数が増えると罰則を受けるかもしれないというものになる。そして、そのプレッシャーが、数字いじりへとつながるのだ。

この本から提示されている問題点は、かなり根の深いものではないでしょうか。マイケル・サンデル教授が「実力も運のうち」で指摘した能力至上主義の裏側には、この測定基準に対する執着があるようにも思えます。人間を評価する場合、測定できるものと、測定できないものがあることは誰しも理解していることだと思いますが、測定できるものに固執するあまり、測定できないものを無視して良いものだろうか?社会の共通善を考えた場合それは良いことなのだろうか?・・・・・・簡単に答えが出ることではないのですが、考えなければならない問題だと思います。

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