「外交回想録」(1953年発行・毎日新聞社版)重光葵著を読みました。著者は第2時世界大戦敗戦直後に組閣された東久邇宮内閣(皇族が首班となった史上唯一の内閣)で外務大臣に再任され、日本政府の全権として(戦艦ミズーリ上で)大本営・参謀総長梅津美治郎とともに降伏文章に署名した方です。また第一次上海事変の停戦交渉中に、朝鮮独立運動家・尹奉吉(ユン・ポンギル)の爆弾攻撃に遭い右足切断の重傷を負うも、回復後は隻足の名外交官として多くの人に敬愛されました。神奈川県とは縁のある方で(1957年湯河原の別荘でお亡くなりになっています)、著者の足跡や思想を紹介する重光葵記念館が湯河原にあるそうです。今回の「外交回想録」は著者の69年の人生の中の、1911年に外務省に入省してから、1941年7月(対米開戦は12月)駐英大使であった時に帰国するまでの30年間が書かれています。
この本は、日本の外交官・政治家であった重光葵さんが書いた自伝であり、第一次世界大戦から太平洋戦争勃発までの30年間、ドイツ、イギリス、アメリカ、中国、ソ連などの各国に赴任して平和外交に尽力してきた記録です。パリ講和会議や上海事変、張鼓峰事件など重要な国際会議や事件に関与しており、特に満州・上海事変、外務次官、駐ソ大使、駐英大使の期間の記録は、当時の外交の現場にいたものにしかわからない感覚のようなものが感じられ、当時の日本全体がどのような空気に包まれていたのかを、国内・国外から冷静に見た貴重な資料となっています。昭和の動乱期に、国益を守るため平和外交に尽力した著者の生涯と業績の詳細は、ぜひこの本を読んでみてもらいたいと思います。
今回でこの本でも、やはり軍部との対立が書かれています。特に私が注目したのは駐英大使時代、英外相に面会を求められて訪問し、英ハリファクス外相から、東京の駐日クレーギー大使からの報告を聞かされた場面なのですが、東京駐在の英陸軍武官が陸軍参謀本部に呼び出され、第二部長(土橋少将)から言い渡された内容です。「英国は日本の敵蒋介石を援助している。香港およびビルマ路はこれが閉鎖を要求する。英帝国は今日すでに滅亡に瀕しているから日本の眼中にない。外務省(日本の)の如きは全然無力で、なんら日本の実勢力を代表していない。日本陸軍は今日、日本を左右する実勢力である。この要求は英国が尊重しなければならない・・・・。」これはあまりにもひどい例だと思いますが、著者もおそらく当時を感じさせる例としてこの本の中にあえて入れたエピソードだと思われます。今まで読んできました外相経験者三人の本を読んで、旧日本軍部の、我々は日本の中心であり、日本を動かして指導しているのは我々なのだという驕り、その中でも日独伊三国同盟推進一派には、情状酌量の余地はないように見えます。著者は「日本は絶対に欧州戦争に介入してはならない」と再三東京に打電したが日本政府は受け入れず、1940年日独伊三国同盟締結、欧米の対日姿勢を強硬なもにしてしまい、日本は太平洋戦争に突入することになります。
「願わくば 御国の末の 栄え行き 我が名をさけすむ 人の多きを 」
1945年降伏文章に署名したときの心境を詠んだものです。精一杯努力したがこうなってしまった、しかし希望はまだある・・・・・・強さとはこういうものだと思います。こうした強さを身につけるためにはどうしたら良いのだろうか・・・・考えさせられます。