「変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯」を読みました。著者の浅海保さんは読売新聞入社後政治部、ワシントン、モスクワ支局などを経た後、米カリフォルニア州立大学ジャーナリズム大学院客員講師。帰国後、読売新聞東京本社編集局長を経て順天堂大学国際教養学部特任教授。「アメリカ 多数派なき未来」や「アメリカよ!」などの著書を執筆されています。ここで外交官・牛場信彦さんをざっと紹介しますと、入省後、第二次世界大戦敗戦まではドイツ畑を歩む。ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクでのドイツ語研修を経て、在ドイツ日本国大使館、本省条約局第二課および政務局第四課、在英国日本国大使館などに勤務した。戦後は親米派外交官として知られることになりますが、戦時中は戦時統制経済の実現を図った「革新官僚」であり、日独伊三国同盟を強力に推進した「枢軸派」としても知られています。敗戦後、外国為替管理委員会事務局長に就任。外務省を一旦退任した後、1952年8月通商産業省の3代目通商局長に就任し、以降駐カナダ大使外務事務次官等を歴任する。1970年に外務事務次官を退官後、沖縄返還交渉、日米繊維摩擦交渉が大詰めを迎える時期に駐米大使を務め、日米交渉に臨んだ方です(Wikipedia調べ)。牛場さんは日独伊の枢軸同盟路線を推進した外交官で、少壮軍人の群と手を組み、暴威をふるって日本を破滅に導いた一人として戦後外務省を一度は追われました。復帰して後々「親米派」の経済外交で活躍し、事務次官、駐米大使、対外経済担当相を歴任。そうしたありようを「変節漢」と呼ぶ人もいるそうです。激動の昭和と言いますが牛場さんの生涯もまさに激動そのものといった感じです。外交官という立場を考えるとあくまでも国の方針を決めるのは政治家なので、外交官個人の考えはいろいろあるのでしょうが、外務官僚が国の方針を決めていたとしたらそれは確かに問題だと思います。さらに枢軸同盟路線は結果的に失敗だったことは明らかなので、要するに牛場さんが間違ったことをしていたことに間違いはない。しかし戦後、日本が「一流国」になるため、牛場さんが数々の日米交渉に取り組み、気概ある外交を貫いたことも確かです。牛場さんは過去のことはあまり語らなかったようですが、変節と愛国についていろいろ考えさせられました。