人間の経済

2022年05月13日 08:46

「人間の経済」という本を読みました。著者の宇沢弘文博士は経済学者で専門は数理経済学、もともと東京大学理学部数学科を卒業するも、河上肇の「貧乏物語」に触発され、戦後の混乱期に数学のような貴族的な学問に従事している場合ではないと考えて経済学に転向。スタンフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校、シカゴ大学、東京大学などで研究教育活動を行なっています。宇沢博士は後年、成長優先の政策を批判する立場に転換し、大気や水道、教育、報道などを地域文化を維持する為には欠かせないと説き、市場原理に委ねてはいけないと主張しています。特にシカゴ大学時代の同僚だった市場原理主義のリーダーたるミルトン・フリードマン博士との対立は激しく、フリードマン博士の市場競争を優先させた方が、経済は効率的に成長するという主張に対し、宇沢博士は効率重視の過度な市場競争は、格差を拡大させ社会を不安定にすると反論しています。最終章である第8章の“「シロウトの経済学」ゆえの仏心“には宇沢博士の人間と経済のあるべき関係ともいうべきメッセージが込められているように思えます。そこには宇沢博士が特別な親近感を感じていると語る、第55代内閣総理大臣を務めたこともある政治家にしてジャーナリストで日蓮宗の権代僧正でもある石橋湛山氏が登場するのですが。石橋湛山氏とはどういう人なのかをざっと説明すると、戦前は「東洋経済新報」により、一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱え、戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍(大蔵大臣、通商産業大臣、郵政大臣も歴任している。戦前に鎌倉町議会議員を務めたこともある)、保守合同後初めて本格的に実施された自民党総裁選挙を制して総理総裁となったが、在任2ヶ月弱で発病し、退陣した。退陣後は中華人民共和国との国交正常化に力を尽くした方です。

これを踏まえて第8章から一部抜粋すると、石橋湛山はしばしば「日本のケインズ」と呼ばれますが、私は二人には似て非なるところがあるように感じます。簡単にいうと、ケインズにはちょっと甘いところがあるが、湛山はいかなるときでも冷静に判断しているという印象がある。それでいて、自分の経済学について、こんなふうに述べています。「私のごときは、もとより、いわゆる学者ではないから、本を読んでも、誰れが、どんな説を唱えたなどということは一向覚えていないし、覚えようともしなかった。ただ読んだ中から、実際に役立つと思う点を拾い出し、それを自分の書いたり、実行したりすることに応用した。シロウトの経済学は、それで良いのではないかと思う」。湛山に比べたらずいぶんスケールは小さいですが、私も経済学をはじめたのはかなり遅かったので、普通の経済学者のように学説を正確に理解しているわけではなく、その時どきの問題について考えるにあたって、様ざまな経済学者の書いたものを参考にしているので、その点、湛山には特別なアフィニティ(親近感)を感じるのです。

湛山とちがって、ケインズには湛山のようなノーブルな心があまり感じられません。つまり、人間が人間らしく生きていくときに経済は非常に重要である、と考えるのがケインズだとすれば、湛山は、経済はあくまでも人間が人間らしく生きていくためのもの、という考え方です。経済より、人間のほうに明確に重きを置いているのです。(第8章「シロウトの経済学」ゆえの仏心から一部抜粋しました)

宇沢博士は、ジョン・ラスキンのアダム・スミスの「国富論」にはじまる古典経済学のエッセンスを凝縮した本の中にあった“There is no wealth, but life.“という言葉を、「富を求めるのは、道を開くためである」と訳し、経済学を学ぶときの基本姿勢として、ずっと大事にしていたそうです。博士の社会共通資本(「社会的共通資本」岩波書店、2000年出版)という概念は、行きすぎた競争社会、なんでも数値化して評価してしまう社会・・・今こそ考えなければならない課題だと感じました。

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