百人一首

2022年05月12日 17:19

「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに
        雲隠れにし夜半の月かな」    紫式部(百人一首57)
久しぶりにお逢いして、今見たのはその人かどうか見分けもつかない間に、雲隠れした夜半の月のように、あなたはお帰りになったことです。

2024年大河ドラマは「源氏物語」の作者・紫式部が主人公に決まったそうです。あまり歌人としては有名でないようなのですが、百人一首に和歌が収められています。百人一首は鎌倉時代初期に藤原定家が京都小倉山の山荘で揮毫した小倉山山荘色紙和歌に基づくものが後世歌がるたとして広く用いられ、特に小倉百人一首として定着したものです。これには現在の大河ドラマ鎌倉殿の13人にも関係しているところがあります。藤原定家撰による歌集でほとんど「百人一首」同じ作品で構成されている「百人秀歌」というものがあるのですが。不思議なことに「百人一首」に記されている100の歌と比べると、98人の歌人97首の歌が一致しているが、3首は異なり、1首多く合計101首の歌になっています(後鳥羽院、順徳院の歌がなく、代わりに一条院皇后宮、権中納言国信、権中納言長方の歌が採用され、源俊頼の歌は別の歌が選ばれている)。これは承久の乱を計画し鎌倉幕府に流罪処分を受けていた最中の後鳥羽院の歌が、初めに発表された「百人一首」にあり、後の「百人秀歌」にないことから、「百人秀歌」は定家の政治的配慮が込められていた「百人一首」の修正版ではないかとの説があります(逆に百人一首のプロトタイプだという説もある)。藤原定家は後鳥羽院政期に要職を追われた九条家や西園寺家と近かったり、不満を託した和歌を持参したため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れて勅勘を受け、和歌の世界での公的活動を封じられています。承久の乱が1221年ですから約800年前・・その時代から忖度はあったんでしょうか?もしくは個人的恨みか?はたまた全くの無関係か。定家は後年、権中納言に任ぜられてから、特に源義家が元服して武神として信仰した石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られているので、源氏とは何か縁のようなものがあったのかもしれません。

「人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの           

 後鳥羽院(百人一首99)
人がいとしく思われ、また恨めしくも思われることです。つまらなく世を思うことから、物思いをしている私には。

謎があってあれこれ考えられる“のりしろ“のようなものがあるから歴史は面白いのかもしれません。

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