1941年12月8日ハワイ真珠湾攻撃が開始され、日中戦争を戦っていた日本は、対米、対英戦争となる太平洋戦争へ突入していった。父から聞いた話で、今では言われなくなったようですが、戦争中に12月8日は開戦記念日と呼んでいたそうです。今回は「太平洋戦争への道1931−1941」半藤一利・加藤陽子・保坂正康 NHK出版を読みました。この本は、NHKラジオの特集番組「太平洋戦争への道〜戦前日本の歴史の選択〜」2017年8月15日をもとに、ノンフィクション作家の保坂正康さんが、本編の議論を補足する解説を書き下ろしてまとめたものです。1931年の満州事変から1941年の真珠湾攻撃までの10年間、日本が犯した失敗に至る道筋を六つの転換点から検証して明らかにしていく内容となっています。❶関東軍の暴走❷国際協調の放棄❸言論・思想の統制❹中国侵攻の拡大❺三国同盟の締結❻日米交渉の失敗、こうした形でポイントをはっきりしてもらうと、漠然と日本はどこで失敗しちゃったのだろう・・と考えているよりも、頭の中を整理しやすく、一つ一つの考えを積み上げることで、全体像を考えさせられるように結びつけてくれます。関東軍の暴走は柳条湖事件の段階で事態の収拾を早期に図ろうとしていたが、強行意見に押される形で満州事変に発展してゆく。当時、常任理事国であった国際連盟を脱退するにあたっては、国際社会に日本を引き止めようと考えている人たちもいた、脱退に反対している人たちも少なからずいました。日中戦争は早期に和平交渉をして決着を誰もがつけたいと思っていたが、誰に引きずられていったのかもわからず泥沼化。三国軍事同盟には海軍は反対でした。日米交渉は決裂を避けるため最後まで努力した人が少なからずいた。つまり太平洋戦争に至る道すじの分岐点では、必ず反対意見も存在していました。そう考えると❸言論・思想の統制は非常に重要だったと言えると思います。新聞・ラジオが煽った世論に圧される、そうした空気があったことも事実ですが、2.26事件、5.15事件、血盟団事件と軍部が起こした恐怖をもとにした『恐怖の空気』はあまりにも大きな力を持っていた。今年は太平洋戦争開戦から80年の節目にあたるそうです、まだまだ学ばなければならないことはたくさんある、そう考えさせられました。
最後に、加藤陽子さんは「戦争は暗い顔で近づいてこない」、保坂正康さんは「命令一つで命を奪った軍事指導者の罪」半藤一利さんは「日本人よ、しっかりと勉強しよう」とした学ぶべき教訓を残しています。