「宗教建築を体感する 祈る心をかたちにすると」武澤秀一著を読みました。著者の武澤秀一博士は東京大学工学部建築学科卒業。同大学大学院工学研究科修士課程中退、東京大学助手。その後、設計事務所を主宰。神社仏閣、教会、モスクなどの建築空間を通しての人類の心のありようの探究がライフワーク。「空海 塔のコスモロジー」、「天皇たちの寺社戦略」、「持統天皇と男系継承の起源」、「建築から見た日本古代史」、「法隆寺の謎を解く」、「伊勢神宮の謎を解く」、「伊勢神宮と天皇の謎」、「大仏はなぜこれほど巨大なのか」、「神社霊場 ルーツをめぐる」、「マンダラの謎を解く」など著書多数。(表紙裏著者紹介)
この本は、宗教建築を“見るもの“ではなく“身体で読む巨大な書物“として捉える本です。世界の宗教建築を〈回る〉〈進む〉〈彼方を見る〉という三つの身体的体験で読み解き、祈りの動作そのものが建築の意味を形づくると説きます。ストゥーパを巡る回遊、伊勢神宮の直線的な参道、パンテオンの天窓など、建築が人の身体と視線をどのように導き、宗教の世界観を体感させるかを具体的に示します。宗教建築は古い遺物ではなく、人類の精神を形にした普遍的な創造物であるという視点が全体を貫き、最後には著者自身が構想した“幻の納骨堂“が紹介され、宗教建築の本質が凝縮された章となっています。(COPILOT作内容紹介)
鎌倉という土地柄だと思いますが、お寺や神社が狭い土地にごちゃごちゃといっぱい建っていて、お寺の中でも禅寺系が多いのですが、色々な宗派がこれまたごちゃごちゃっとあり、神社では大きい鎌倉時代から続く政治と結びついてきた神社あり、小さくて地域の共同管理になっているような神社はそれこそあちこちにたくさんあります(ちなみにキリスト教の教会もカトリック系、プロテスタント系と色々あります)。小さい頃からお寺も神社も遊び場にしている身近な存在でしたが、子供なりに何か違いを感じていたような気がします。お寺は門があって敷地に入りにくいが(大きなお寺は拝観料がかかる)、入って仕舞えば本堂へは入りやすく仏像は直接見ることができる場合が多く、神社は門がなくて(鳥居はある)入りやすいが、拝殿まででほぼ本殿へは入れないので神様までの距離は遠く感じます。COPILOTによると、お寺は、入り口の境界は強く、中心は近い。内側へ沈む祈りで“内向きの宗教建築“となっていて、神社は、入り口の境界は弱く、中心は遠い。彼方へ向かう祈りで“外向きの宗教建築となっているそうです。しかし神社の場合、小さい自治会などが管理している神社はそもそも拝殿と本殿が分かれておらず、小屋のような祠が立っているだけというような場合がありますが、そうした神様は祠にいるわけではなく、場所そのものに宿っている神様のため、それこそ鎮守の森全体に神様は宿っていることになります。
宗教建築は人々の礼拝のしかたを決めているとともに、その宗教が想定する世界観を体現している。(プロローグより)鎌倉は三方山で囲まれ南は海の面している自然の要塞とよく言われますが、都市デザインの観点からは見ることが多く、建築という観点からはあまり考えたことがありませんでした・・・あらためてよく考えてみたいと思います。