円生と志ん生

2020年07月03日 08:35

井上ひさし著「円生と志ん生」を読みました(正確には円生ではなく圓生)。これはこまつ座119回公演「円生と志ん生」(作井上ひさし)として2017年に行われた舞台を本にしたものです。落語家二が1945年敗色濃厚なな時期に満洲へ慰問に訪れたまま帰れなくなった話なのですが、まず主人公2人について触れておきたいと思います。

円生とは6代目三遊亭圓生師匠のことであり、人情噺を得意として御前公演もしたことのある昭和を代表とする落語家の一人。志ん生とは5代目古今亭志ん生師匠のことであり、リズムとテンポで軽妙な芸を得意として戦後の東京落語会を代表する一人で、ズボラだったり破天荒、酒にまつわるエピソードは数多くあるが、圓生師匠に言わせれば“完成した志ん生の芸は出来不出来の差は激しいが、いかにもそれは志ん生らしいところで、それも型があっての自在の間なんです”と評している。(どちらの落語家も戦後に芸・人気ともに勢いを増して全盛期を迎え、名人と称されるまでになっている)

時は1945年から1947年にかけての600日。舞台は満洲国の大連。大森博史さん演じる円生とラサール石井さん演じる2人は1945年慰問のため満州に渡った。しかし敗戦となって軍や満州鉄道関係者6万人は先に帰国してしまう。民間人は大連に取り残されてしまうが、ソ連軍が大連を占領・封鎖して、中にいた日本人たちは帰りたくても帰れなくなってしまう。そこから物語は始まり帰国するまでの笑いあり涙ありの命がけの珍道中が繰り広げられるわけです。

行く当ての無い孝蔵(志ん生)が修道院に泊めてもらっているところに松尾(円生)が会いにいく。そこで修道女に落語家を説明するシーンがあるのですが、ここでの台詞は印象に強く残りました。「苦しみや悲しみは放っておいても生まれてくる?その鉄則には笑いは入ってない?(修道女が元々この世には備わっていないのですよと返答する)ところがそれをこしらえているものがいるんですよ。この世にないなら作りましょう、あたしたちは人間だぞという証にね。その仕事をしているのがあたしたち噺家なんです。」さらに続きます「この世が涙の谷ならどうせ災難が続けざまに襲いかかってくるんでしょ、それならその災難をステキでしょってのりこえちまうんですよ。」

二人は帰国できない絶望や、シベリヤへの強制送還の恐怖、今日食べるものにすら困る貧乏など、生きるか死ぬかの苦労を経て日本に帰国して、落語家としての全盛期を迎えます。避けようのない苦労や不幸を笑いに変えて、腹をくくりその状況をしなやかに受け入れる。やっぱり「笑い」は奥が深い、こうしたセンスを大切にして、どうしたら身につけていけるだろいうと考えさせらました。

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