コロナ禍と出会い直す

2024年11月13日 15:17

「コロナ禍と出会い直す」磯野真穂著を読みました。著者の磯野真穂博士は人類学者。専門は文化人類学、医療人類学。主に摂食障害や医療の文化的側面について研究。2010年早稲田大学大学院文学研究科博士課程後期課程修了。博士(文学)。早稲田大学文化構想学部助教、国際医療福祉大学大学院准教授を経て2020年より在野の研究者として活動。2024年より東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。一般社団法人De-Silo理事。応用人類学研究所・ANTHRO所長。著書に『なぜふつうに食べられないのかー拒食と過食の文化人類学』『医療者が語る答えなき世界ー「いのちの守り人」の人類学』『ダイエット幻想ーやせること、愛されること』『他者と生きるーリスク・病い・死をめぐる人類学』共著として『急に具合が悪くなる』などがある。

この本の内容はこんな感じです、コロナ禍で連呼された「大切な命」というフレーズ。それは恐らく、一面的には「正しい」フレーズであった。しかし、このフレーズのもとに積み重ねられた多様で大量の感染対策が、もとから脆弱であった人々の命を砕いたのも事実である。もちろん必要な対策はあったが、「批判を避けたい」「みんながそうしている」「補助金が欲しい」といった理由での「感染対策」はなかったか。そのような対策が、別の命をないがしろにしていた可能性はなかったか。博士はコロナ禍での「不要不急」のフィールドワークを通じて、日本社会の思考の癖や感じ方の癖を考察しています。また私たちがコロナ禍を通じて直面したさまざまな問題や経験を再評価し、新たな視点から問い直しています。

コロナ禍とはなんだったのだろう・・・医療従事者の端くれとしてコロナに向き合った経験から考えることはあります。日本は新型コロナの死者数を低く抑え感染対策に成功したことに間違いはないと思いますが、様々あった問題を無かったことにして良いわけではなく、検証することは大事であり、医療人類学の視点からコロナ禍がもたらした影響について掘り下げることも大変重要だと感じます。

博士は日本人の感じ方の癖としてこう書いています、「新型コロナにおける日本人の感染対策は「頭」で行われていたのではなく、「身体」で行われていた。政府・自治体や医療専門家、さらにはメディアが発した情報は日本人の身体によく響き、集合的なリスクの実感が国民レベルで一瞬にして立ち上がったため、法的拘束力をほとんど行使せずに、国民レベルの行動変容を素早く起こすことが可能となった。(中略)これは集合的な対策を素早く生成するという点でコロナ禍初期には力を発揮した。(中略)しかし座学なしで即興的になされた対応であったため、新型コロナの経験が積み重なり、この病気を頭で理解する機会が訪れても、身につけた振る舞いを捨てられなかった。頭でわかっても、身につけたようにしか身体は動かないからである。」自分に当てはめてみても“なるほどなあ“と思うのですが、これを教訓にして「頭」でわかったことを「身体」に落とし込む作業を医療従事者としては率先して行う“癖“をつけて、さらにそれを広められるような心がけが必要なのだと身に沁みました。

ちなみに博士は医療従事者に対する分析が残された課題であると書いていますが、端っこのそのまた端っこの末端に位置する医療従事者ではありますが、感染対策が過剰になったり、必要以上に長引いてしまう要因の一つには、医療従事者の医療崩壊に対する「恐怖心」があったにではないかと思います。医療が崩壊するかもしれない・・・・適切な治療が行われれば助かる命が目の前で失われていく・・・なすすべもなく治療が行われず患者が放置される・・。そうした現実が突きつけられてかなりの重圧を感じて恐怖を感じた方も少なくなかったと思われます、信用を失うという恐怖といった側面もあったのではないでしょうか。「恐怖」は厄介です。これに取り憑かれて冷静に行動することは難しい。その中で冷静に行動するためには、日々の備えはもちろんですが、感染症の知識のみならず幅広い知識を必要とし、危機対策の多くの経験などが必要となるでしょう。博士の今後の研究を待ちたいと思います。

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