「石橋湛山の65日」保坂正康著を読みました。著者の保坂正康さんは、1939年札幌市生まれのノンフィクション作家であり小説家。同志社大学文学部卒業、卒業後、電通PRセンター入社。その後朝日ソノラマに転職して5年勤務後に退社してフリー。個人誌「昭和史講座」を中心とする一連の研究で第52回菊池寛賞を受賞。「ナショナリズムの昭和」で第30回和辻哲郎文化賞を受賞。「昭和史 七つの謎」「あの戦争は何だったのか」「東條英機と天皇の時代(上下)」「昭和陸軍の研究(上下)」他著書多数。(Wikipediaより)
この本の内容はこんな感じです、太平洋戦争の終戦から10年余の時を経た昭和31年、国内政治の民主化と自主外交を旗印にした石橋湛山政権が誕生した。だがわずか65日の短命で終わるーー。そして日本は自主性なき外交の道を歩み出した。戦前・戦中から一貫して小日本主義、反ファシズムを唱え続けた反骨の言論人が、戦後、政治家の道を歩み、首相の座を降りるまでの激動の保守政治の史実を克明に描き、短命に終わった“幻の政権“が日本人に投げかけた謎に迫るノンフィクション。新型コロナウイルスの未曾有の危機が立ち去った後、日本の前途は洋々たりと歩むために立ち返るべき、もう一つの戦後史。(内容紹介より)
ここで石橋湛山元総理とはどんな人物だったかをざっと紹介すると、ジャーナリスト(東洋経済新報社主幹)、政治家、教育者(立正大学学長)であり、1909年〜1913年の間、陸軍の在籍経験もある。政治家としては、大蔵大臣(第50代)、通産大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)を歴任。戦前は「東洋経済新報」等の論壇において、国家として正常な政策と見做されることもあった帝国主義を日本にはそぐわないものと見抜き、国際協調を背景とした貿易・科学による経済安定を提唱した。戦前戦中は、帝国主義・ファシズムを批判し、言論の自由を標榜し、市民を中心とした徹底的民主主義とリベラリズムを貫き通している。戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍した。保守合同後(55年体制後)初めての本格的に実施された自由民主党総裁選挙を制して総理総裁となったが、65日で発病し、退陣した。退陣後は中華人民共和国との国交正常化に尽力した。湛山の思想は、ヒューマニズム・自由主義であり、他を顧みず絶対的な主義に陥ることによる破滅に警鐘を鳴らしている。(Wikipediaより)
この歳になるまで今まで学んでこなかったのが恥ずかしいのですが、この本を読むとアメリカ占領下での日本政府の現実や自由民主党の結党時の歴史の一面を知ることができます(あくまでもある一面ですが)。鎌倉町議会議員であったこともあり鎌倉とは縁のある(鎌倉に住んでいたこともある)方なのですが、世界中で「あちら側」と「こちら側」といった分断が深刻化している今、石橋湛山元総理のような人物は必要なのかもしれません。最後に石橋内閣総理大臣によって行われるはずだった幻の第26回国会(常会)施政方針演説(岸内閣総理大臣臨時代理代読)から一部を抜粋したいと思います。
『二大政党による国会の運営が、真に国民の期待に沿い、国民の信を一そう高めるためにとるべき方途は一、二に止まりませんが、その中でも、特に、自由民主党及び日本社会党の両党が、外交を初め、国政の大本について、常時率直に意見を交わす慣行を作り、おのおのの立場を明らかにしつつ、力を合せるべきことについては相互に協力を惜しまず、世界の進運に伍していくようにしなければならないと思うのであります。国会に国民が寄せる信頼は、民主主義の基であります。これにいささかなりともゆるぎがあってはなりません。そのためには、個人としてはもとより、公党の立場においても、清廉はつらつの気風をふるい起こし、常に国家の永遠の運命に思いをいたし、地方的利害や国民の一部の思惑の偏することなく、国民全体の福祉をのみ念じて国政の方針を定め、議論を尽くしていくように努めたいのであります。』
分断を起こさないための信頼とは何か?考えてみたいと思います。